「なぜあの人たちは、あんなに自信を持って堂々と自分の意見が言えるのだろう?」

オーストラリアや西洋の国に行ったことがある人や、それらの国の人達と触れ合ったことがある人は、一度はこのように思ったことがあるのではないでしょうか?   「なぜあの人たちは、あんなに自信を持って堂々と自分の意見を

オーストラリアや西洋の国に行ったことがある人や、それらの国の人達と触れ合ったことがある人は、一度はこのように思ったことがあるのではないでしょうか?

 

「なぜあの人たちは、あんなに自信を持って堂々と自分の意見を発信したりできるのだろう?」
「なんであんなに陽気でフレンドリーに人と接せたりするのだろう?

と。

 

 

ちなみにオーストラリア人は、お堅いニュース番組の放送中でも面白いニュースが入って来たら、涙を流して笑い転げたりします。笑 毎日楽しそうですよね笑

 

 

僕も日本を出るまでは全くその理由がわかりませんでした。

 

 

ただ単に生まれつきあの人たちは自分に自信を持っているのだろう、ぐらいに思っていました。

 

 

 

しかしオーストラリアの幼稚園で働いてみて、「なぜオーストラリア人が自分の意見や自分自身に自信を持っているのか」が、ようやく分かったのです。

 

 

 

 

【教育の違い】

 

 

 

幼稚園で働き始めて2ヶ月後、

この謎を解く大きな事件が起きました。

 

 

僕が働いていた幼稚園では毎月1回、特別講師を招いて普段のレッスンでは扱わない内容を習うようなスペシャルレッスンの日がありました。

 

その日のテーマは惑星
月や火星などの惑星の写真を見ながら、宇宙の歌を歌い、そのような世界があることを知るという授業でした。
(注意:生徒はみんな5才くらい)

 

一通り惑星の曲も歌って、授業も終盤に差し掛かったところでその特別講師の先生が、子ども達にある質問を投げかけました

 

 

その問いは、

 

月はどうして明るいでしょう?

 

というものでした。

 

 

 

当然解答としては「月が太陽の光を反射しているから」ですが、子どもたちはみんな5才くらいなので、

 

「月でお祭りしてるから!」

 

「みんなが光をたくさん使ってるから!」

 

「そこに住んでいる人はみんな光っているから!」

 

 

など可愛らしい回答を次々と発表していました。

 

横で見ていた僕は「みんな可愛いなー」ぐらいにしか思っていなかったのですが、

その特別講師の先生は違いました。

 

その子ども達の回答を聞くと、

 

 

「うわーーー!そうかもしれないね!!!」

 

「よくそんな回答を思いついたねー!」

 

「そのアイディアとってもおもしろいね!!!」

 

 

と一人一人の回答やアイディアをびっくりするぐらい褒めていたのです

 

 

子ども達は何を発表しても褒められるような環境なので、「私の/僕の意見を聞いて!」と口々に自分の意見を先生に伝えようとしていました。

 

しかもその意見が周りの人の意見と違えば違うほど、そのユニークさを褒められるので、「他の人とは違った回答をしよう」という意識さえも見えました。

 

そんな誰でも褒められるような環境。

 

 

子ども達の自己肯定感は下がるわけがありません。

 

 

「自分という存在、私という人間の意見」が全て受け入れられるような環境がそこにはありました。

 

 

 

しかし、だからと言って全員が全員褒められるわけではないのです。

 

ちゃんと怒られる子もいます。

 

 

どのような子が怒られるのかと言うと、

 

 

 

「考えることを止めて、人の意見を真似する子

 

 

です。

 

 

 

みんながそのように自分の意見を言っている中、マイケル(仮名)は窓の外を見つめてボーッとしていました。

 

 

そこですかさず講師の先生が、

 

「マイケル、あなたはどう思うの?」

 

と聞いたのです。

 

 

何も考えていなかったマイケルはびくっとして、ソワソワし始めました。そして横に座っていたエマ(仮名)の回答が先ほど褒められたことを思い出し、

 

 

「月でお祭りしているから」という回答をそっくりそのまま真似して答えました

 

するとさっきまで笑顔120点満点だった先生は、急に表情を変え、5才の子どもに対して怒るレベルではないぞ?ぐらい剣幕にマイケルに対して怒ったのです。

 

 

「この時間の中であなたは何も成長してない。人の考えを真似するのではなく、自分の意見を話しなさい!」

 

と。

 

 

その状況を見たときに、自分が小学生だった頃の授業の風景、そして自分が大学生の時に実習生として小学校で授業を行っていた風景が頭にフラッシュバックしてきました。

 

 

そこで思ったのです。

 

 

もしこの質問を日本の学校で同じようにしたらどうなるのだろう、、、?

 

と。

 

 

今までの授業を思い出す限り、先生が投げかける質問に対して、こんなにアクティブに回答をしてくる子ども達を見たことがなかったからです。

 

 

もし同じように先生が質問したとしたら、

 

 

先生 :

「月はどうして明るいでしょう?」

 

 

塾に行っていて、先に答えを知っているような子だけが手を挙げる。

 

 

 

生徒A:

「太陽の光を反射しているからだと思います。どうですか?」

 

 

 

一同   :「いいです。」

 

 

回答する子は、“自分の考えを述べる”と言うよりは

 

“教科書に書いてある答えを音読する”ようにその質問に答える。

 

そして周りの子ども達はとりあえず「いいです」と賛同する。

 

 

ここでとりあえず「いいです」と同調している子達は、大人になるにつれて自分の考えを持つことができるのだろうか?

自分は何が好きで、何をやりたい!と心から言えるようになるのだろうか?

 

 

今は時代が違いますし、全部の学校でこのように発表者の意見に対して「いいです」と同調するスタイルを取っているわけではないと思います。しかし、そういうスタイルを取る学校があったのも事実ですし、僕らは「自分の考えを述べる」というような機会があまりにも少なかったのではないかなと思います。

 

 

 

このような教育を受け、

 

このような環境で育った僕らが大人になるとどうなるのか?

 

 

 

 

社会に出ると、もう学校ではないので

「解答」が載っている教科書もありません

 

 

 

しかし、「解答を出すことが正義」と思ってしまう僕らは、

やはりその「解答」を探そうとします。

 

 

 

 

大人になった僕らにとって、

何がその「解答」となるのか?

 

 

 

 

 

 

それは、

みんなの意見」です。

 

 

 

みんなが「いいです」と言ってくれるものです。

 

 

 

 

みんなが、世間が「いいです」と言うから、とりあえずやりたい事があるわけでもないけど大企業に入ろうとする。

 

 

世間で「安定していて、いい」と言われているから、とりあえず公務員を目指す。

 

このように、

 

多くの人が「いいです」と賛同するものが、

 

あたかも社会での「解答」となっているのではないかなと思います。

(目的を持ってその道を選ぶ人もいますし、何も悪いことではありませんが)

 

 

だから、

 

「あなたは何がしたいのですか?」

 

「将来の夢は何ですか?」

 

と自分の意見や価値観に対する質問をされても、わからない。

 

 

 

なぜなら自分の価値観は「自分が何をしたいのか?」ではなく、

 

社会での「解答」である、みんなからの「いいです」に合わせられているから。

 

 

 

いざ自分が何をしたいのか?と考えてもわからない。

 

 

 

これが現代の若い人の悩みである、

 

「自分が本当にやりたいことがわからない。」

 

の正体なのではないかなと思います。

 

 

 

 

 

ちょっと話が日本の方に逸れてしまいましたが、

 

 

 

つまるところ、「自分の考えを自由に発言できて、しかもその発言が受け入れらる環境で育った/そのような教育を受けてきたこと」が、オーストラリア人を始め、西洋人がなぜ「あんなに自信を持って堂々と自分の意見を発信したりできるのか?」という謎の答えではないかなと思います!

 

 

教育って大事ですね!笑

 

 

 

今回も記事を読んでくださり、ありがとうございました。